20代で両親を癌で亡くした僕の想い ~心の宿り木を目指して~

僕は21で母を、29で父を共に癌で亡くしました。 僕の経験や想いを書きます。 このブログが一人でも多くの方の心に届いて 心の宿り木のような存在になってくれると嬉しいです。

余命

両親を癌で亡くした僕が経験した出来事を書きます。 身近で見た癌発見前の体の異変、癌発見、入院、抗がん剤、告知、看病、別れの時、それぞれの死から感じた事など赤裸々に書きます。 読んでくれる方の何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

次に眠ったら…

混乱したまま案内された部屋に入ると
そこは暗闇に近い部屋だった。


しかし僕はすぐに不信感を抱いた。
それはいつもの主治医の先生ではなく
初対面の先生だったことに。


(だれだこの先生は…)


僕は余計に混乱した。
とりあえず一例をして
椅子に腰を掛けた。


すると僕の困惑した表情を見てか
その先生はしゃべり始めた。


いつもの主治医の先生は
緊急の手術が入り、
その手術を行っているので
代わりに自分が説明する。


昨日起きた一連の様子は
主治医から聞いている。


僕はその話を聞きながら
これから話される本題が
気になって、
集中できていなかった。


そしてようやく本題へと入る。
急に先生の顔が曇る…。


その表情を見て
僕の不安と緊張は頂点に達した。


そして先生が口を開いた。
僕の目をじっと見て





「お母様の脳には酸素が行きにくい状態です。」





「高山病のような症状になっています。」





「いつ亡くなってもおかしくない状態で、それが明日かもしれないですし、明後日かもしれません。」





「もっと言えば次に眠ったらそのまま…かもしれません…。」





あまりにも僕の予想を遥かに超える、
そして突然告げられた、


「もう今日亡くなるかもしれない」という
先生からの説明に


ショックが大きすぎて
涙が出ることもなく、
一瞬だけ放心状態に陥った…。


(もうそんな状態にまで来てしまったのか…)


(次に眠ったら最後って…)


たしかに昨日、腹水が貯まり
死ぬかもしれないとは思ったけれど


昨日の夜からも、
そしてさっきも
普通に会話ができていたし、


入院した段階からもう手遅れで
抗がん剤を使えるような状態ではなく、
投与できなかったこともあり、
入院前と変わらず、髪はフサフサ。


腹痛を訴えた約1ヶ月前から
全くと言っていいほど
何も食べれられない状態だったとはいえ、


元気だった頃と比べ、体形も少しだけ
痩せた程度で、
死ぬ直前の状態だとは感じられずにいた。


昨日の腹水で
「覚悟をそろそろしなければいけないのか…」
と考えてはいたけれど、心のどこかで
「まだその時まで時間はあるはずだ」だと
勝手に信じていたのに…。


そしてこの時ひとつだけ許せなかったのが、
この先生はこの説明中、ずっと少し笑いながら
説明をしてきた。


正しくは顔が引きつって笑っているように見えた。
よくニュースなどで目撃者として
インタビューに応じている人が
重大な事故を目撃したにもかかわらず
笑っているように見える。
まさにそれと同じだった。


でも当時の僕には
そんな表情をして
説明をしてくる先生を
許せるだけの心の余裕はない。


その表情が許せず、
ずっとその先生を睨んでしまった。


そして早くこの場から去りたい
ただそればかりを考え
話が終わるや否や
早々とその部屋から出た。


(主治医の先生から説明してほしかった)


(あの顔は絶対に忘れない!)



この時の僕は
先生たちを憎むことで


突然突き付けられた
受け止めようがないこの現実から
逃げようとしていた。


先生を憎む怒りの気持ちで
このとてつもない悲しい宣告から
逃げようとしていたのだ…。


そして気持ちは母に何と言って
ごまかそうかということ…。


答えは出なかったが
僕は母の待つ病室へと向かう。






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告知(上) ~今も消えぬあの日の後悔~

「告知」
ついにこの日が来てしまった。


癌が見つかり、見つかった時には
すでに手遅れな状態。


「母が動揺するから」
と綺麗事を言って先延ばしにして
自分達が傷つくのが怖くて
先延ばしにしていたように思う。


それと同時に
どんなに辛くても
どんなに目を背けたくても
いつか伝えなければならない、
避けては通れない道だとも覚悟していた。

母に告知をする事となり、
父は休みを取った。

兄は仕事に向かった。


僕は大学が補講期間の為、休み。
告知の朝、父は僕に「告知に同席するか?」
と問いかけてきた。


この当時の僕は
もう限界だった。


緊急入院
緊急手術
癌発見
余命宣告
母との残り時間があとわずかしか残されていない事
人生で初めて死にたいと思った事
大好きな母から「死にたい。死んでも良いよね?」と言われた事


21歳の僕にはもう毎日が辛い事ばかりで
しかも目の前で起きる怒涛の悪夢に対して
その都度100%受け止めてしまっていた為


僕の心はもう限界だった。
だから当時の僕が出した答えは…。


「おれは良いよ。信幸が一緒に居てあげて。」
といった趣旨の事を言ったのを覚えている。


はっきりと覚えているのは
こうして言葉を濁した事。


本当は


おれにはもう限界。
これ以上傷つきたくない。
告知を聞いて動揺する、はつみを見るのが怖い。
受け止められる覚悟がない…。


これが僕の心の声、
心の叫びだった…。



要するに僕は逃げたんです…。
怖くて、傷つきたくなくて…。


さらに僕はこれから
不謹慎な行動を取る事を
父に告げた。


父はそれほどではないけれど
1995年頃からイチロー選手のファンとなった
母の影響で我が家は野球が大好きになった。


兄は巨人ファン、僕は西武ファン。
僕が高校生になったぐらいから
選手に直接サインを貰いに行くのが
僕らの楽しみになっていた。

大ファンの涌井選手や松坂選手に
サインを貰えた時は嬉しくて貰えた直後に
その都度母に電話をしていた。


電話の先で母も一緒に喜んでくれて
凄く嬉しかった。


そしてこの日僕は
これからジャイアンツ球場に
この年鳴り物入りで巨人に入団した
ルーキー大田選手にサインを貰いに行くと
父に告げた。


普通なら
「おまえも母ちゃんの傍にいてやれ!」

などと怒っても良いはず。


僕が父の立場なら、間違いなくそう言う。
でも父は違った。


僕の言葉を濁した、
あっさりとした無責任な返事、


そして母への告知という
とてもとても大事な事案に
同席しないうえに
あろうことか
サインを貰いに行くなどと
不謹慎極まりない行動に対して

父はすんなりと了承してくれた。


父は最後まで僕に同席を促すようなこともなく、
呆れた感じでも、突き放すわけでもなく
僕の意志を尊重してくれたというか


僕はその言葉に甘えて
ジャイアンツ球場へと向かった。


僕はこの日、告知という
辛い現実から逃げたのだ…。



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一緒に寝たいよ

母の癌は必ず治る!と
1人で勝手に期待していた僕。


先生からの言葉で
残酷な現実に戻らされた。


期待していた分、
そのショックは相当大きかった・・。


気持ちの整理がつかず、
僕は1階のロビーの椅子に座り
気持ちを落ち着かせようとした。


今にして思えば、
母の前では明るくいなくては!
と常に自分自身を必要以上に追い込んでいたと思う。


時間にしてどのくらいだっただろうか。
水を取りに来たのに、あまりにも時間がかかれば
母に疑問を持たれるからと、長居はしなかったと思う。


病室に戻ると何の話の流れだったかは
覚えていないけれど、


母だけは元気な体に戻れると思っていたので、
母と退院してからの生活について話をした。


母は退院してすぐには、
洗濯物を2階に持っていくのが
できないから僕にやってほしいと
頼んできた。


「もちろん!持って行くだけじゃなくて、干すのも畳むのもやるよ」
と言葉に力を込めて答えた。


無理だとはわかっていたけれど
話を合わせたわけではなく、
母が帰って来た生活を
期待というか
夢見て僕は答えた。


だけど、それ以上に僕としては



「退院できるかもわからないこと」



「普通の生活には戻れないこと」



がわかっていたので辛かった。



「あれもしたい!これもしたい!」



「あれをしなくては!これもしなくては!」



など母から出てくる言葉は
前向きな事ばかりだったので
余計に辛かった・・。



でもこの時、
僕は母に一つのお願いをした。


それは絶対に叶わない事だと
わかっていたけれど......。



それは僕の心の底からの願いだった。
言葉にしようとする時には
目には涙が溢れていた。



「家に帰って来れたら、子供の時みたいに
一緒の部屋で布団を引いて寝よう。
また一緒にはつみと寝たいよ」



言葉の後半から僕はもう
むせび泣きながらだった。


母はまた僕の頬から流れる涙を
親指で受け止めてくれて


「そうだね。久しぶりに良いかもね^^」


と優しく微笑んでくれた。
僕はその穏やかで優しい笑顔を見て
余計に母が恋しくなり、さらに泣いた。



結局僕のこの願いは叶わなかった・・。




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打ち砕かれた浅はかな考え

目が覚めると悪夢の前日から
次の日の朝になっていた。

涙のせいで枕が湿っていて
なんだか気持ち悪かった。

僕はベットの上でこれからのことを
自分なりに色々と考えた。

母が入院している病院は
家から自転車で10分以内の所にある。

面会の時間までまだ時間はたくさんある。
そこで僕はさらに考えた。



まだ死ぬと決まったわけじゃない



何か治る方法があるはず



先生は3ヶ月と言ったけれど
まだなにか手はあるはずだ



この時の僕は母の為に何かできることがあるはずだ
と思い、無我夢中だった。


もっとも「末期癌」という意味や「残された時間があとわずか」
という現実が理解できていなかった。



無我夢中で癌についてインターネットで調べていると


「笑うと癌細胞は死ぬ」という説を発見した。
「これだ!病院に行ったら母をたくさん笑わそう!」
と純粋に喜んだのを今でも覚えている。


そしてもう一つ。


日本最大のがん専門病院
公益財団法人がん研究会 有明病院



の存在を知り、僕のテンションは上がった。



しかも同じ東京にあることを知り、



「ここならきっと、はつみの癌を治してもらえる!!!」



その時の僕は本気でそう思った。


家からお見舞いに行くのは大変だけれど、
はつみの命がかかっているから背に腹は代えられない。


「父と兄が仕事から帰って来たら提案しよう」
と真剣に考えた。


また癌にはステージと呼ばれるものがあること。
ステージがⅣまであり、数字が上がるにつれ進行していることを指すこと。


この時僕は癌にステージがあること
初めて知った。


それほどまでにこれまでの僕の21年間の人生には
無縁のワードだったから。


ただ末期癌がどれに該当するのかは
この時点ではわかっていなかった。


そうこうしているうちに気がつくと
面会開始時間を過ぎていた。


大学生で冬休みだった僕は
すぐに母の病院へ向かった。


病室に着くと早速、
僕はたくさん母を笑わせようとした。


本人にはまだ癌であることを隠さなければならなかったので
がん専門の病院の事は言えなかったけれど、たくさん笑わせようと
明るく振舞った。


そして母に水が飲みたいと言われ、
1階にある無料の水を取りに向かった。


すると奥の方から、主治医の先生が歩いてきた。
僕は早速調べたことを先生に聞こうと
エレベーターに乗ろうとする先生に声をかけた。


僕は朝調べた事を期待や恐れを抑えながら
先生に問いかけた。


「インターネットで調べていたら、癌の専門の病院があるとわかりました!
そこでなら母の癌は治りますよね?」


「母のステージはいくつなのでしょうか?ステージⅠかステージⅡですか?」


など今考えると主治医に対して失礼な事ばかり聞いてしまった。


それほどまでに僕はまだ治ると確信していた。


一通り僕の質問が終わると先生は悲しげなというか、
なんて声を掛けたらよいのか、困ったような顔をしながら



「残念ながら昨日もお伝えしましたとおり、お母様の癌はもう末期なのです。」


「私達にはお母さんの残りの時間少しでも長く延ばしてあげることしかできないのです。」


「お辛いでしょうが、残りの時間を少しでも長くお母様の傍にいてあげてください」


と言い、先生は僕にお辞儀をして、
そのままエレベーターへと乗っていった。


1人で勝手に舞い上がっていたから余計に
現実の希望のなさに打ちのめされた。


僕の浅はかな考えは
いとも簡単に砕け散った…。



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それぞれの

手術が終わり、
病室に戻って来て
少し落ち着いた頃には
すでに19時半を過ぎていた。


母が「
色々とみんなも疲れただろうからそろそろ帰りな」
と僕らの事を心配してくれたので、
その言葉に甘え僕らは帰路に着いた。


ただ母の病室から出た後はみんな、
ほとんど会話をしなかった。


というよりあまりにもショックが大きすぎて、
会話をする気にすらならなかった。


家に着き、食事やお風呂を済ませた後
いつもどおり父は一人でビールを飲んでいた。


我が家では父だけがアルコールを飲める。
その上、父はビールが大好きで
350の缶ビールを2本飲むのが日課だった。


しかしこの日の夜は違った。


やり場のない怒り、


余命を告げられたショック、


最愛の人との別れが近い現実、


常に冷静で温厚な父がこの日の夜だけは違った。


缶ビールを6~7本飲み、ベロベロに酔っ払い、


泣きながら


「おれは〇〇医院のあいつを絶対に許さない」


怒りを噛みしめるように


「あいつは毎週はつみを診ていたのに、末期癌に気づかないだなんて」


僕はそんな父の姿を見て、
さらにショックを受けた。


こんな事を言うような父ではないのに、と・・。


兄はというと、もともとドライというか、
父以上にある意味冷静な人の為、
ほとんど取り乱しているようには見えなかった。


後から本人に聞いた話では
長男ということもあり、
自分だけは冷静にいなくては思っていたらしい。
それと僕が毎日ピーピー泣いていたから、
母を不安にさせたくなかったとのことだった。


僕はというと、
一人になるとひたすら泣いていた。


別れたくない


もっと一緒にいたい


死んでほしくない


怖い


嫌だ


父と兄に余計な心配をかけられない



色んな不安な感情に襲われ、
横になりながらもずっと泣いていた。


無意識にも泣いていて、夜中
隣の部屋で寝ていた兄が、
心配して僕の様子を見に来るほどであった。


僕の頭の中はずっと母の事でいっぱいだった。
大学生だった僕にはこの現実が
あまりにも残酷で、到底向き合える事ではなかった。



そして眠りから覚めた僕は、
浅はかな考えを思いつく・・。




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