20代で両親を癌で亡くした僕の想い ~心の宿り木を目指して~

僕は21で母を、29で父を共に癌で亡くしました。 僕の経験や想いを書きます。 このブログが一人でも多くの方の心に届いて 心の宿り木のような存在になってくれると嬉しいです。

家族

両親を癌で亡くした僕が経験した出来事を書きます。 身近で見た癌発見前の体の異変、癌発見、入院、抗がん剤、告知、看病、別れの時、それぞれの死から感じた事など赤裸々に書きます。 読んでくれる方の何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

僕らは「家族」

告知を受け、ショックを受け
計り知れない恐怖と戦う母。


一方、ようやく自分の過ちに気づいた僕。
かける言葉は見つからないが、
母の病室へと戻った僕。


僕も気が動転していたので
この時、母とどんな会話をしたか
覚えていない。


ただ覚えているのは半日、
ほとんど会話は無く、
母は険しい顔、僕はひたすら下を向いて
泣いていた。


でもこんな状況でも
こういった時間は長くは続かなかった。


元々僕ら家族は、凄く仲が良くて
どんな問題にぶつかっても
些細な事で喧嘩をしても
いつも時間が解決してくれた。


お互いがお互いを放っておけないというか
深い所で強い絆で結ばれていたから。


この時もそうだった。
翌日には徐々に母との会話が増え、
母にも僕にも少しずつ笑顔が増えてきた。


改めて
僕らは「家族」なのだと
心の底から実感した。


改めて自分の中で
「家族」という存在が
自分には無くてはならないもの、
失いたくないものだと
再認識できた。



そしてようやく本当の意味で
この日になって初めて
ココから母と同じ方向を
向いていくことができた。


もう隠すことなど何もない
思う存分、母との残りの時間を
大切に、大事に過ごしたい。


家族の思い出を
ひとつでも多く残して
この「心」に焼き付けたい。


僕はそう決意した。
その一方でこれから今まで以上に


目を覆いたくなる事


目を背けたくなる事


心が折れるような事


僕が想像もできないような
出来事が起こるのだろうと
漠然としたイメージではあったけれど、
僕は強い気持ちを持って
来たるその時を覚悟をした。


しかしその時は
僕が想像していたより
早く訪れた。


ここから怒涛の勢いで
母の容体は悪化する。


母との別れの時が
こく一刻と迫ってきた…。


いよいよ母との別れの
カウントダウンが始まる…。


母が亡くなるまで
あと約10日…。






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最後の年末年始

12月22日に入院し、
癌が見つかり、余命宣告を受け
人工肛門になり、鼻から管を入れて


我が家の2008年は11月までは
例年と変わらなかったが
12月に入り年末にかけて
一瞬にして絶望の年へと変わった。


この当時バイトしていた所で
毎年恒例の大掃除があったのだが、


お母さんのそばにいてあげて
と温かい言葉を貰い、休ませてもらった。


その事を当時、母に伝えると
「良い所で働かせてもらってるね、アルバイトだからって手を抜かずに一生懸命がんばりなさい」
とアドバイスをくれたのを覚えている。


この言葉は社会人になった今でも
大切にしている言葉のひとつでもある。


2008年の大みそかのお見舞いは家族全員が揃った。
仕事が終わり、職場から直接病院に来た父と兄。


1人ずつ母と年内の挨拶を済ませた。
僕は「今年もお世話になりました。」と言った後、


言葉に力を込めて
「今年はこんな感じで年を越すけれど、来年は体治して良い年にしようね!」
と伝えた。


それは僕の心からの願いでもあった。
心の底では、無理だとは諦めていたけれど、
それ以上に生き続けてほしいという願いを込めて...。


「今年SMAPは紅白で何を歌うのかな?」
と母に聞かれたので


「紅白もビデオに録画しておくから、家に帰って来たら篤姫と一緒に見な^^」
と励ました。


母は嬉しそうに「そうだね^^早く退院しないとね^^」とニコッと笑った。
その顔を見てまた目が真っ赤になった。


そして母とお別れをし、家に帰り紅白を見た。
いつもなら母と一緒に見ている紅白も今年は母がいない。


(寂しいな....)とまた母が恋しくなった。
一緒に見て感想を言い合う。


こんな些細な事が
どれだけ幸せな事なのかを痛感した。


そして年が明け、母のお見舞いに行き
新年のあいさつ。


「今年もよろしく。今年は思い出をいっぱい作ろうね」
と目を真っ赤にして伝えたら


「なにそれ?(笑)まずは一日でも早く元気になって、それからだね^^」
と母は言い、昨日の紅白などについて話したのを覚えている。


これが僕が母と過ごした最後の年末年始。


母が亡くなるまであと33日。
ここから一気にショッキングな出来事が連続で
起こる悪夢のような日々が始まる.....。






何も言えず泣くことしかできなかった母からの言葉


告知


母に嘘をつかなければならなかった日々から
解放されたことを喜び
自分のことしか考えなかった僕


今でも後悔している告知したあの夜


母にはすべてお見通しだった僕の嘘


生きるのを諦めた母の前で
一人悔し泣きをしたあの日の夜


誰よりも辛かった父の決断


泣きながら心を込めて「おれ幸せだよ」と伝えられたあの日


好きな人がいるんだと初めて伝えたあの日


なんであんなことをしてしまったのだと未だに後悔している亡くなる前日の行動


僕が来るのを待っていた母


永眠





振り返ってみても
この母が腹痛を訴えたあの日から
母が亡くなるあの日までの出来事は
僕にとって今になっても母の顔、病室内の風景などを
鮮明に覚えているほど死ぬまで忘れられない、
母とのかけがえのない大切な大切な時間となった。


これから母が亡くなるまでの
出来事を書いていきますので
これからもよろしくお願いします。


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同じ方向を

鼻からチューブを入れ終わり、
母が病室に戻ってきた。


しかし母は憔悴しきっていて
とても会話ができるような
雰囲気ではなかった。


精神的にも肉体的にも
疲れ切っているのが見て取れた。


僕ら家族は母が回復するまで
1人ずつ交代制で看病した。


そして夜になった頃には
母もだいぶ落ち着いて会話も普通にすることができた。


その頃には家族4人全員揃っていた。
そして病室に来た
主治医の先生から


このチューブから排液が出てくる。
歩くことで出やすくなる。
様子を見てリハビリがてら病棟を歩いていきましょう


と説明を受けた。


母の痛々しい姿を見て
ショックを受けたけれど


先生からの説明を受け
僕は1人心の中で


(この茶色の毒素のようなものがたくさん出れば良いんだな)


と強い決意をした。
そして次の日から言われた通り
母と一緒に病棟内を歩いた。


母は右手に点滴付きの歩行補助器を
左手に手すりを持ちながら
ゆっくり、ゆっくりと歩いた。


もちろん僕は母の横に立ち
母の体を支えながら。


母は久しぶりに歩いたから
すごく気持ち良さそうで
嬉しそうだった。


僕もまた母と一緒に歩いていて
嬉しかった。


最初のうちは1度にそんなに歩けないので
ちょっとだけ歩いて病室に戻り


1時間程度休んだらまた歩く。
それを約1週間繰り返した。


僕が「よし!休憩終わり!はつみまた歩こう^^」
と声をかけると


「ゆうじはスパルタだな~^^」
と嬉しそうに応じてくれた。


僕はこの穏やかな時間が
いつまでも続いてほしい
と心の底から思った。


そして歩き終わり、病室に戻って
母のチューブからたくさんの排液が出てくる
と2人で一緒に喜んだ。まるで子供のように。


例え未来が決まっていたとしても
この前向きで同じ方向を見て
一緒に一喜一憂している
この時間を大事にしたい。


そんな風に思いながら疲れて眠っている母の横で
チューブから出てくる排液を見ながら


(お願い!はつみの体から癌細胞も一緒に出て行ってくれ!)


と泣きながら願った。




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「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」って

依然として母は
元の元気な体に戻れると希望を持っていた。


しかし母も唯一、
今回の手術をしたことで
今後の生活に不安を持っていることがあった。


そうそれは人工肛門。
癌細胞が邪魔をして
自然な排泄ができなくなった為、
便を排泄するために
胸の下あたりに人工の肛門を
作った。


本人には今回の腹痛を招いた原因の
ひとつであり、それを解消するために
人工肛門の処置をしたと伝えてあった。


母は当初、人工肛門になったことに
少しショックを受けていたが
その事実を受け止め、必死に対応しようとしていた。


そんな入院して数日立ったある日
僕がいつものようにお見舞いに行くと
母は申し訳なさそうに


「ゆうじごめんね…パジャマにうんちがついちゃった…」


「イトーヨーカ堂行って新しいパジャマを買って来てほしい…」


「このパジャマを家で洗濯してきてほしい…ごめんね…」


と母は何度も僕に「ごめんね」と言ってきた。


僕はまた泣いてしまった。


僕ら家族の為にいつも頑張ってきてくれた母。
僕ら家族が仲良くやってこられたのは
間違いなく母のおかげ。


そんな母との残りの時間が
本当にあとわずかしか残っていないのなら


母のこんな悲しそうな顔は見たくないし、
僕といるときだけでも穏やかな気持ちでいてほしい。


少しでも母の笑った顔を
この目に焼き付けたい!
少しでも前向きであってほしい。


母からの「ありがとう」
という言葉だけで僕は頑張れる。


様々な事を考えながら、
僕も泣いてはいたけれど
深呼吸をして笑顔を作り、


はつみ、謝ることなんかないよ。
これからは
「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」って言おう。
だって俺はつみのこと大好きだもん
はつみの為ならおれがんばるよ
全然謝ることなんてないよ

と言った。


そしたらはつみも


「そうだね^^ありがとう^^」


と笑顔で言ってくれた。


このやりとりも今でもすぐに思い出せる。
それほどまでに、あの時こう言えて良かったと
思えている。


僕にとってこの日のこのやりとりも
母との忘れられない大事な思い出です。


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普通が一番

専業主婦の母が入院した事で
僕と父、兄の男3人の生活が始まった。


当時は父と兄は会社員、
僕は大学生。


母が家にいた時は
家事全般をやってくれていた。


母は本当に家族が大好きで
家族の為に、家族中心の生活を
ずーっと送っていた。


日中僕らが仕事や学校に行っている間に、
近所へ自転車でスーパー等に買い物に行っていた。


また特にこれといった趣味もなく、
1人でどこかに出掛けることはなかった。


そのため、常に家には母がいた。
外が暗くなれば、玄関の電気をつけ、
玄関のカギを常に開けて、
家族の帰りを待っていた。


仕事柄、兄の帰りが24時頃になる時が多々あった。
それでも兄が帰ってくると、わざわざ起きて、
コミュニケーションを軽く取ってから寝る。


翌日になれば朝5時には起きて
仕事に出掛ける父と兄の見送り。


朝になれば、僕の食事の準備など
常に母は僕ら家族の為に頑張ってくれていた。


そんな母はドラマが大好きで
唯一母が自分の為に時間を使える時だったと思う。


よく母とキムタクやつよぽんのドラマを
毎週見ていた時に僕だけ見逃してしまう時があった。


僕は録画したドラマを見る前に
母からあらすじを聞いてから
見るのが大好きだった。
母もまた軽い優越感からなのか
嬉しそうに教えてくれた。


この年、NHKの大河ドラマは「篤姫」
母が体調を崩したのが12月上旬。


ちょうど母が体調を崩した頃に
最終回が放送された。
その当時、母はTVを見るどころではなかったため、
入院した時は、最終回を見れなかった事を
悔やんでいた。


「録画してあるから家に帰ったら見れるよ」
と励ましたのを覚えている。


結局、録画した最終回を
見ることはできなかったけれど、
病院のTVで総集編を見れたので、
結末はわかったと喜んでいたのは覚えている。


また僕が未だにSMAPが好きなのは、
間違いなく母の影響。


毎週月曜日の夜は母と一緒に
スマスマを見て、


メンバーの誰かが出ている
ドラマやバラエティー番組は
ほとんど見ていた。


ちなみに解散が発表された時は
仏壇に「はつみSMAPを解散させないでー」
とお願いし、スマスマの最終回は
母の遺影をTV前に置き、
一緒に見た。


話がそれたが、そんな当たり前だった我が家の日常も
母が入院した事で、一変する。


家に帰れば、玄関のカギはしまっていて
暗くなってから家に帰る家からは光が漏れていない。


夜、お見舞いから帰って来た時に
外から見た我が家が真っ暗だった事に
当時凄くショックを受けたのを覚えている。


夜は必ず家には母がいたから
外から見た真っ暗な我が家に
慣れなかった。


と同時にこうしたことでも
母のありがたみがわかった。


また母が入院した事で
僕が気づいたことがある。


そうそれは


「普通が一番」ということ。


もちろんお金があったり、
おいしいご飯が食べれたりできれば
それに越したことはないけれど、


当たり前だった日常を失った事で
どれだけ今までの日常が幸せだったのかがわかった。


家に帰れば母がいて、
一緒に父と兄の帰りを待ち、
TVを見たり、家族でくだらない話をする。


何の変化も無く、
これといった出来事は起きないけれど、


「普通が一番幸せな事」


というのが身に染みてわかった。
この時から今もずーっと
僕はそう思う。













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