20代で両親を癌で亡くした僕の想い ~心の宿り木を目指して~

僕は21で母を、29で父を共に癌で亡くしました。 僕の経験や想いを書きます。 このブログが一人でも多くの方の心に届いて 心の宿り木のような存在になってくれると嬉しいです。

両親を癌で亡くした僕が経験した出来事を書きます。 身近で見た癌発見前の体の異変、癌発見、入院、抗がん剤、告知、看病、別れの時、それぞれの死から感じた事など赤裸々に書きます。 読んでくれる方の何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

家族と野球があったからこそ

僕は野球が大好きだ。
1995年母が当時オリックスにいた
イチローのファンとなり
我が家はあっという間に
野球好きな家族になった。


翌年の1996年の3月20日、
東京ドームで行われた
巨人対オリックス戦を
家族全員で見に行った。


これが家族全員初めて
生でプロ野球の試合を見に行った日だ。


なぜこんなに鮮明に覚えているかというと
今も住んでいる実家に
この日撮ったイチローの写真がずっと
貼られているからだ。


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その後も両親にたくさん
プロ野球の試合に連れて行ってもらい
僕ら兄弟はあっという間に
兄は巨人、僕は西武ファンとなった。


母はもちろん亡くなるまで
ずっとイチローのファンだった。


当時の僕は小学校3年生。
両親に初めて野球に連れてってもらってから
野球の虜になった。


見るだけではなく
自分もやりたい!


そんな僕ら兄弟を見て
グローブやバットやボールを
両親は用意してくれた。


当時小学3年生だった僕は
3歳上の兄と兄の友達達に混ぜてもらい
一緒に野球をやって遊ぶことが多かった。


家から自転車で15分ぐらいの所にある
グランドでよくやっていて
一度大雨が降った時、


当時の僕は兄と一緒だったのもあり
門限は夕方の5時まで大丈夫だったのだが


その日は突然の夕立で
傘も無く、ずぶ濡れの状態で
思うようにすんなりと帰れなかった。


いつもより帰りが遅くなってしまったのだが
僕の記憶では10分ぐらい遅くなったのだが
心配性な母は傘を差しながら
家のまでずっと僕らの帰りを待ってくれていて
僕らを見るなり凄い勢いで怒ってきた。


母は怒りが頂点に達すると
ヒステリックになりパニック状態になって
僕らを怒る。


僕は母に怒られるのが怖くて
門限は絶対に守らなければと
母と一緒に暮らしていた時は
ずっと肝に銘じていた。


話が逸れたが
僕は小学生の間は
市のチームには入らず


中学生になって親友もいたこともあり
野球部に入って3年間やり遂げた。

僕の中学校では
自分の所で試合が出来ないため
土日などは他校で試合をしていた。


ごく稀に市内の中学校と
試合をしたときは父と母と兄が
見に来てくれた。


ただグランドの保護者席には入らず
外野の奥のフェンスの向こう側から
そっと見てくれていた。


僕の記憶では兄が腕組みをしながら
グランドを見ていた時があり
1人で笑っていた。


(なんで怒っているんだよ(笑))


と。



幸い、顧問の先生にも恵まれ
下手くそでも元気に声を出してくれたら
試合に使ってくれる先生だったので
毎日が楽しかった。


先生のおかげで野球が
ますます好きになることができた。


でも高校に行くと野球部に入ったが
弱小校だったものの
僕は下手くそで体力が無い為
練習にすら付いて行けず
野球が嫌いになりそうになり
3ヶ月で退部した。


その当時、両親に野球部を辞めたいと
相談したところ


「野球が嫌いになる前に辞めた方が良いと思う」


「おまえがそう決めたなら応援する」


と言ってくれ
僕の決断を支持してくれた。


今にして思えば


この部活を3ヶ月で辞めた時も


大学生になって
初めてのアルバイトを3日で辞めた時も


転職を決めた時も



驚かれたりはされたものの
怒られたり、
ガッカリされた事は無かった。


転職の時はもう母がいなかったけれど
僕の決断した事に対して
きちんと僕の考えを尊重してくれた。


本当に両親と兄には
伸び伸びと育ててもらった。


僕には家族と野球があったからこそ
泣きながら前に進めた。


そして僕には心の支えになったくれた
2人のプロ野球選手がいる。


次回とその次はその選手について
書こうと思う。


野球に興味ない方も
ぜひ読んでいただければと思う。









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母のありがたみが身に染みて

男3人の新たな生活が始まって
約2ヶ月ぐらい立った。


そんなある日、僕はある事で
母のありがたみが身に染みて
涙が出た。



母は専業主婦で
心配性な性格だった。



そんな母の性格を表しているのが
日用品のストックの多さ。


我が家には
ティッシュやトイレットペーパーなどが
常に豊富に在庫があった。


その為、母が生前の頃は
薬局でよくある
「お1人様2点限り」
などの安売りの日に
僕が家にいると
僕にも買いに行ってと
よく頼まれたのを覚えている。



当時の僕はめんどくさいなと言いつつ
母が喜んでくれるからと
素直にはなれなかったものの
母に頼まれた通り
買いに行っていた。


だが母が体調を崩し
入院し他界して
約4か月。


生前母が大量に購入してくれていた
日用品の在庫も少しずつ無くなってきた。


その為、学生で時間のある僕が
父が作ってくれた購入リストを元に
買いに行くことになった



母が居た頃はそれこそ
ティッシュやトイレットペーパーなど
それだけを買いに行っていたので
歩きの場合は両手で、
自転車で行った時は買った物をカゴに入れ、
カゴに入りきらなければもうひとつは
ハンドルにひっかけて運転していた。


いずれにしてもティッシュもトイレットペーパーも
軽いので、母から頼まれたおつかいの時は
特に何も感じられなかった。


だけど母が亡くなり、いざ自分が担当になったことで
ティッシュやトイレットペーパーだけではなく
洗剤やシャンプーなど、ちょっとプラスして
他の物を買っただけで自転車のカゴに乗り切らず、
ハンドルの所にひっかけたとしても
重くて、ハンドル操作がうまく行かない。


そして何より日用品は字のごとく
日常に必要な物の為
消費が早い。


至るものがあっという間に
無くなる。






「はつみはこんなにいつも大変な思いをしていたのか」



母が居た頃には気にもしなかったし
気づくことすらできなかった。


そんな自分が恥ずかしくて
情けないと思った。


(こういった日用品が)家にあって
当たり前ではないけれど
僕にこういった事を感じさせないぐらい
母がきちんと身の回りの世話をしてくれていた事や


そんな母に対して感謝の気持ちを持てていなかった事



母に対して直接感謝の思いを伝えられなかった事


失ってから初めて大切な事に気づいた自分に


悔しくて


腹が立って


母に会いたくなって


母に直接伝えたかったと
恋しくなって


たくさん泣いた。




ごめんねはつみ



ありがとうはつみ









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僕が父と兄を「ちゃん」付で呼ぶようになった理由

はつみが生きた証を残したくて


洗濯物の干すタイミング


お風呂を入れる時間


母と同じタイミングや方法を取る事で
母を感じられて
僕の心の中にいつも
母がいた。



そして僕にはもうひとつ
母が亡くなってから
母の真似をして
ある習慣を変えた。


それは父と兄の呼び方だ。



このブログでも時折書いているので
いつも読んでくれている方は
ご存知かと思うが


僕は母が生前の頃
父と母と兄それぞれを
下の名前で呼び捨てにしていた。



信幸



はつみ



洋平



家族以外の人に
家族の事を話すときは



父、父親、父ちゃん


母、母親、母ちゃん


兄、兄ちゃん



などと言っていたが
普段呼び捨てにしているので
他人に家族の事を話す時には


わざわざ言い換えて
言わなければいけないので
未だに違和感があるというか
ぎこちない。



母は父と兄の事は
基本的に
「ちゃん」付で呼んでいた。


信ちゃん


洋ちゃん


といった風に。


僕はごく稀に


ゆうちゃんと呼ばれていたが


僕は



ゆうじ



と呼ばれるのが好きなので
小学生の高学年ぐらいに
母にその呼び方は止めてほしいと
頼んで以降は
ほとんどちゃん付では
呼ばれなくなった。




そこで僕は
母が亡くなった事で
ある決意をした。



それは僕も
母と同じ呼び方で父と兄の事を
呼ぶようにした。



最初のうちは
こんなことでも


僕がこうして母と同じ呼び方で
2人を呼ぶことで


2人に母のことを
感じてほしくて
呼んでいた。


父と兄は優しいので
僕がこうして呼ぶ事に対して
初めて呼んだ時から
今まで一度も


「気持ち悪い」





「その呼び方は止めろ」



などと言わずに
僕の好きなように
呼ばせてくれた。



母が亡くなって9年半


父は1年前に亡くなったものの
ずっとこの呼び方で呼んでいたから


元から家族の仲は良かったけれど
今まで以上に家族の距離感が近くなったと
感じた。


もっとも母が亡くなった事が
何よりもの理由だけれど。



やはりごく稀に口喧嘩などしても
「ちゃん」付するようになってからは
怒っている最中でも


「信ちゃんのヤロー」


とどこか迫力が無くなる為か
すぐに怒りが治まった。


ちなみに僕は両親の事をそれぞれ
「親父」「お袋」と呼んだことは
人生で一度も無い。



ちゃん付で呼ぶのはともかく
親しみのある呼び方で呼ぶのは
結構オススメです^^





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はつみの習慣だから

母が亡くなって
男3人での新しい生活が
少しずつ、そして確実に
スタートし始めた。


父と兄は仕事。
兄は土休日も仕事があるので
家族3人休みはほとんどない。


父が食事を担当してくれた。
朝はご飯と味噌汁と魚が準備してあり
僕はレンジでチンするだけで良かった。


そして仕事から帰ってくれば
すぐに僕の夕飯の食事を作ってくれ
本当に僕ら子供達の為に尽くしてくれた。


父は元々料理を作るのが好きで
母が居た頃も土日の仕事が休みの日は
父が担当していた。


ただ作るだけではなく
一品一品が美味しかった。


僕はというと
アルバイトには復帰したものの
アルバイトが無い日は


相変わらず家に
引きこもっていた。


朝起きて掃除機をかけ
父からのメモがあれば
その頼み事を行う。


夕方になれば
お風呂を沸かす。



夜になれば
洗濯機を回し
洗濯物を干す。



母が生きていた頃に


こんなことしていたな


あんなことしていたな


と一緒に居た時に
母が何をしていたかを
思い出しながら
母と同じ事をした。



母は夜に洗濯機を回し
夜に室内干しをする、
それが母のスタイルだった。



僕もそのスタイルを受け継ぎ
そのスタイルで洗濯物を担当した。



しかし新たな生活が始まり
夜僕が洗濯機を回しに行こうとすると



何気なく父が



「朝、洗濯機を回して日中干せば?」



と言ってきた。



僕はそんな父のアドバイスを
即座に否定した。



なぜならそれは
僕の中で譲れない事だったから。




「ううん。はつみがずっとやってきた習慣だから夜に干す」




父は僕のその言葉を聞いて
これ以降一度も
「朝干せば?」など
自分の意見を強要することもなかった。


僕の考えを
尊重してくれた。



はつみがずっとやってきたスタイル。
こんな些細な事でも
僕ははつみの習慣を受け継ぐ。


こんな些細な事でも
はつみの存在を
感じられる瞬間だから



僕は今でも
基本的に夜に干している。





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自分の気持ちに正直に

前夜兄から言われた
あの言葉に傷つきながらも
今後の自分の振舞い方を
決意した僕。


だがそれはどこか意地のようなもので
だったらこうすれば良いんだろ、と
強がって決めたのかもしれない。



この当時、父と兄は
仕事がある日は
朝6時半には
2人とも家を出ていた。


僕が起きる頃には
当然2人もいない。


父は4時に起床して
夕飯用の米を研いでくれていた。


そして夕飯で使う食材を
僕が買いに行っていた。


その為の購入リストが書かれたメモ書きが
いつも机の上に置いてあった。


僕はそのメモを元に
近所のスーパーに買いに行っていた。


恥ずかしながら当時の僕は
母が生きていた頃に
たまに一緒に付いて行っていたものの


スーパーにほとんど足を運んだことが無く
どこに何が売っているのかも
ほとんどわからなければ
調味料なども何が何だか
わかっていなかった。


そんな僕の事をわかってくれていた父は
米や焼きそばや豆腐や総菜など
僕がわかるものだけを
僕に頼んで


野菜や調味料などは
仕事帰りにいつも
自分で買って来ていた。



冒頭でも言ったように
母が亡くなってから
まだ日が浅かった為
僕はアルバイトに
復帰していなかった。



僕は父に頼まれた
おつかいの時だけ
家を出るだけで
あとはずっと家に籠っていた。



この当時
母が亡くなってから
何をしたかというと


(これは父が亡くなった時もそうだったのだが)


僕は何故か部屋の模様替えを
2日に渡ってやった。


悲しいから誰とも
関わりたくない


でもちょっとでも
動きが止まれば
母の事を思い出す。


だから僕は
ずっと家の中で
動いていられる上に
集中していられる
部屋の模様替えを
選んだのかもしれない。



その中でとても印象に残っているのが
部屋の模様替えを行っている時
気を紛らわそうと
何か音楽を聴きながら
行おうと思った僕は


水分補給を兼ねて
1階のリビングに向かった。


1階のリビングに着いて
椅子に座って一休みして
ボーっと向かい側にある本棚に目をやった。


本棚の中段にはCDを収納していた。
一段を全てを使うほどCDは無かったので
左詰めに収納していた。


麦茶を飲み終えて
台所にコップを洗いに行こうと
席を立つとその振動からか
数枚、本棚のCDが数枚
右にパタンと倒れた。


僕はコップをテーブルに置き
倒れたCDを直しに行くと


その数枚のCDは
母が購入したアルバムだった。


昭和の名曲が収録されたアルバムで
よく家族でドライブに行った時
車中で聴いた、母が大切にしていた
アルバムだ。


僕はそのアルバムを手にして
また母を思い出し
寂しさが込み上げ
大粒の涙をこぼした。


そして


「よしこれを聴いて模様替えの続きをしよう!」


と決意して自分の部屋に戻った。



コンボの中にアルバムを入れ
流しながら、
模様替えの続きをした。



先程も言ったが
このアルバムは車の中で
嫌というほど聴いた。



聴いているうちに
歌詞を自然と口ずさむ。




そして少し
集中力が切れ
小休憩。



改めてどんな曲が
このアルバムに収録されているのかと
思いながらジャケットを裏返し目をやる。



ちょうど今流れている曲が
終わりそうだ。


次は何だ?


と考えていると…。




次の曲は



海援隊の



「贈る言葉」



だった。



僕はドキッとした…。



そしてイントロが流れ始めると
僕は集中力をMAXにして
この曲に耳を傾けた。



僕はもう曲の最初で
大泣きした。


もはや1番の所だけで大泣きしたので
後半は全く聴けていなかった。


僕は泣きながら急いで
1階に降りて
母の仏壇の前で


声を出して
ワンワン泣いた。


これは母からのメッセージだと…。



昨日兄から言われた
あの言葉を聞いて


自分の中で無理に強がって
決心した僕の考え方に対して



母が


「無理しなくて良いんだよ」



「自分の気持ちに正直にいて良いんだよ」


と言ってくれているようで
涙が止まらなかった。







贈る言葉の歌詞はこちら
↓  ↓  ↓  ↓  ↓


(1) 暮れなずむ町の 光と影の中
  去りゆくあなたへ 贈る言葉
  悲しみこらえて 微笑むよりも
  涙かれるまで 泣くほうがいい
  人は悲しみが 多いほど
  人には優しく できるのだから
  さよならだけでは さびしすぎるから
  愛するあなたへ 贈る言葉


(2) 夕暮れの風に 途切れたけれど

  終わりまで聞いて 贈る言葉
  信じられぬと 嘆くよりも
  人を信じて 傷つくほうがいい
  求めないで 優しさなんか
  臆病者の 言いわけだから
  はじめて愛した あなたのために
  飾りもつけずに 贈る言葉


(3) これから始まる 暮らしの中で
  誰かがあなたを 愛するでしょう
  だけど私ほど あなたのことを
  深く愛した ヤツはいない
  遠ざかる影が 人混みに消えた
  もう届かない 贈る言葉

  もう届かない 贈る言葉
















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