20代で両親を癌で亡くした僕の想い ~心の宿り木を目指して~

僕は21で母を、29で父を共に癌で亡くしました。 僕の経験や想いを書きます。 このブログが一人でも多くの方の心に届いて 心の宿り木のような存在になってくれると嬉しいです。

2017年12月

両親を癌で亡くした僕が経験した出来事を書きます。 身近で見た癌発見前の体の異変、癌発見、入院、抗がん剤、告知、看病、別れの時、それぞれの死から感じた事など赤裸々に書きます。 読んでくれる方の何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

告知(中) ~母の想いに目を向けられなったあの日~

告知の日。
僕はジャイアンツ球場にいた。


ジャイアンツ球場で大田選手に
サインを貰おうと待っている。


でも母の事が頭から離れない。
今この瞬間にも母はどうしているのだろう。


(もう終わったかな…?)


(はつみは大丈夫かな…?)


(おれは最低だ…何してんだよ…)


考えることは母の事と
そして父と母に対する罪悪感。


自分で選んだ決断だが
次第に増していく罪悪感。


かと言ってあの場に同席する
覚悟も勇気も僕にはない…。


一番傍に居てあげなければいけないのに
僕は本当に最低な行動を取った。


そしてそうこうしているうちに
無事に大田選手にサインを貰えた。


(よし!これではつみも喜んでくれるぞ)
などと自分の都合の良いように
気持ちを振るい立たせ、
僕は父と母が待つ病院へと
急いで向かった。


病院に着くなり
1階のロビーで父にメールをした。


いきなり母に会う勇気は僕にはなかった。
ここでも僕の弱い気持ちが出てくる。


父と1階のロビーで待ち合わせをした。
ジャイアンツ球場に居た時から
ずっとこの日は心拍数が上がっていたけれど


病院に着いて父にメールをして
父を待っていたあの時が一番心拍数が上がった。
あの時の光景は今でも覚えている。


そして未だにこうして思い出すと
あの当時の鼓動が蘇るというかドキドキする。


父が下りてきた。
駆け足で父の元へと向かう僕。


「どうだった?はつみの様子はどうだった?」


僕ははやる気持ちが抑えきれず、
父を質問攻めした。


「大丈夫だ。聞いたときはショックを受けていたけれど今は落ち着いている。」


「良かった~。じゃあ今は話せる状態ってこと?」


僕は父からの言葉を聞いて安心した。


(余命を宣告されたのだし、ショックを受けるのは当然だ)


(でも思ったより動揺していないみたいで良かった)


などと自分の都合の良いように勝手に解釈した。


僕はこの時点で
大きな間違いをしてしまった。


そしてその大きな間違いに気づかず、
母に対して最低な言葉を投げかける。


もちろんこの時の僕は
母の気持ちを考えていたつもりだった。
でもそれは本当に「つもり」だった。


僕は父からの「大丈夫だ」という言葉を真に受けた。
父が僕の事を想って、
心がボロボロだった僕へとくれた
精一杯の優しさの言葉だったのに…。


僕は


(これでもうはつみに嘘をつかなくて良いんだ!)


(これで今日からはつみと同じ方向を向いていける!)


と、この1ヶ月はつみに対して
嘘をつかなければならなかった毎日から
解放された事に、不謹慎ではあるが
一種の高揚感のようなものがあり


告知という残酷な現実を突きつけられた
はつみの気持ちを考えるよりも
自分が得られた解放感が勝ってしまった。


そしてその一番に考えなければいけなかった
「はつみの想い」を考えもせず、
はつみの元へと向かった…。


忘れもしないあの光景。
僕がはつみの病室へ向かうと
ちょうどはつみがトイレに向かうため
看護師の方に付き添われながら
病室から出てきた。


僕の顔を見るなり一言。


「大変だったね…。」


今にして思えば
この時のはつみは放心状態だった…。


けれど僕は母の異変に気づかず…。
解放されたことへの反動からか
笑顔でこう返してしまった。


「ううん。これではつみに嘘をつかなくて良いから嬉しいよ!」


はつみは「そうか。」とだけ
弱々しく返事をして
トイレへと向かった。


あの時の、あのはつみの背中は
今でも忘れられない。


はつみは大丈夫などではなく、
放心状態だった。


放心状態になるのは当たり前だなと
年を重ねるにつれ、強く思う。


でもこの時の僕は違った。
はつみの事を考えて毎日毎日泣いていたのに
僕は自分のことしか考えていなかったのだ…。


そして僕はこの日の夜も
はつみの想いを踏みにじる…。


今も消えぬ後悔…。





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告知(上) ~今も消えぬあの日の後悔~

「告知」
ついにこの日が来てしまった。


癌が見つかり、見つかった時には
すでに手遅れな状態。


「母が動揺するから」
と綺麗事を言って先延ばしにして
自分達が傷つくのが怖くて
先延ばしにしていたように思う。


それと同時に
どんなに辛くても
どんなに目を背けたくても
いつか伝えなければならない、
避けては通れない道だとも覚悟していた。

母に告知をする事となり、
父は休みを取った。

兄は仕事に向かった。


僕は大学が補講期間の為、休み。
告知の朝、父は僕に「告知に同席するか?」
と問いかけてきた。


この当時の僕は
もう限界だった。


緊急入院
緊急手術
癌発見
余命宣告
母との残り時間があとわずかしか残されていない事
人生で初めて死にたいと思った事
大好きな母から「死にたい。死んでも良いよね?」と言われた事


21歳の僕にはもう毎日が辛い事ばかりで
しかも目の前で起きる怒涛の悪夢に対して
その都度100%受け止めてしまっていた為


僕の心はもう限界だった。
だから当時の僕が出した答えは…。


「おれは良いよ。信幸が一緒に居てあげて。」
といった趣旨の事を言ったのを覚えている。


はっきりと覚えているのは
こうして言葉を濁した事。


本当は


おれにはもう限界。
これ以上傷つきたくない。
告知を聞いて動揺する、はつみを見るのが怖い。
受け止められる覚悟がない…。


これが僕の心の声、
心の叫びだった…。



要するに僕は逃げたんです…。
怖くて、傷つきたくなくて…。


さらに僕はこれから
不謹慎な行動を取る事を
父に告げた。


父はそれほどではないけれど
1995年頃からイチロー選手のファンとなった
母の影響で我が家は野球が大好きになった。


兄は巨人ファン、僕は西武ファン。
僕が高校生になったぐらいから
選手に直接サインを貰いに行くのが
僕らの楽しみになっていた。

大ファンの涌井選手や松坂選手に
サインを貰えた時は嬉しくて貰えた直後に
その都度母に電話をしていた。


電話の先で母も一緒に喜んでくれて
凄く嬉しかった。


そしてこの日僕は
これからジャイアンツ球場に
この年鳴り物入りで巨人に入団した
ルーキー大田選手にサインを貰いに行くと
父に告げた。


普通なら
「おまえも母ちゃんの傍にいてやれ!」

などと怒っても良いはず。


僕が父の立場なら、間違いなくそう言う。
でも父は違った。


僕の言葉を濁した、
あっさりとした無責任な返事、


そして母への告知という
とてもとても大事な事案に
同席しないうえに
あろうことか
サインを貰いに行くなどと
不謹慎極まりない行動に対して

父はすんなりと了承してくれた。


父は最後まで僕に同席を促すようなこともなく、
呆れた感じでも、突き放すわけでもなく
僕の意志を尊重してくれたというか


僕はその言葉に甘えて
ジャイアンツ球場へと向かった。


僕はこの日、告知という
辛い現実から逃げたのだ…。



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もう限界

「私がんばったよね!?もう死んでも良いよね?」


この母からのショックな言葉から
数時間が立った。


だがこの母からのショックな言葉は
僕の脳裏に焼き付き
必死に別の事を考えようとしても
頭の中で何回もフラッシュバックした。


母はこの日、ずっと怒りを噛み殺したような怖い顔で
声をかけられるような雰囲気ではなかったのを覚えている。


普段は優しい母だったので
余計に怖かった。


でも僕は母の横にずっといた。
会話は一切なかったし、
できる雰囲気ではなかったけれど


僕の想いは


ただただ母の傍に居たい....。


その一心だった。


そして夜になり、仕事から帰って来た父がお見舞いに来た。
何も知らない父。


僕は父の顔を見ると、
張り詰めた緊張がほどけたように
涙がドッと溢れた。


そんな僕の様子を見て、
驚いた父は
何かあったと感じ取り
僕を病棟内のロビーに連れ出した。


そしてまもなくすると
主治医の先生も現れた。


おそらく看護師の人から
父がお見舞いに来たと連絡が入ったのだろう。


主治医の先生から父に
今日起きた経緯を説明した。


僕はその横で
また今日の母からの言葉を思い出して
ずっと泣いていた。


そして主治医の先生から
「このあたりが限界ですね..。奥様も息子さんも精神的にもう限界だと思います。
これ以上奥様に、残りの時間が残されていない事を隠すのは難しい、というのが私の見解です。
明日奥様に告知をしましょう.....。よろしいでしょうか.....?」


僕は先生からの言葉を聞き


(とうとうこの時が来てしまったか…)


とショック受け、さらに泣いた。


それでも父は神妙な顔をしたものの
取り乱すこともなく
「はい」とだけ先生に返事をした。


そして父は泣きじゃくっている僕の肩を
力強くさすりながら、


そして僕の目を
しっかりと見つめながら


「いいな?ゆうじ」
と聞いてきた。



涙でぼやけて父の目をしっかりと見れなかったけれど
僕はむせび泣きながら「うん..」と答えた。


そしてついに
母に告知をする時を迎える...。


それは僕が人生の中で
一番やり直したい、
一番後悔する日にもなった。





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私がんばったよね?もう死んでも良いよね?

自分の体に少しずつ疑問を持ち始めてきた母。
12月初旬に腹痛を訴えたあの日から
ちょうど1ヶ月が過ぎた。


緊急入院、緊急手術、
人工肛門、鼻からチューブ


しかし未だに食事も摂れなければ
歩くことも、もっといえば座ることすら
自力ではほぼできない。


母からすれば治療などを受けて
僕ら家族に励まされたりするものの、


一向に元の生活に戻れるような兆しが見えない。
母のメンタルは限界へと近づいていった。


この日も僕は朝から母のお見舞いに行った。
4人部屋の入って右奥の窓側のベット。


いつものようにカーテンを開け
母に声をかける僕。


「おはよう!今日は体調どう?」
と母の顔を見ると....。


母は僕と目を合わせることも無ければ
僕に「お~おはよう」とも挨拶もせず


怒りを噛み殺すような、凄く険しい顔をして
僕にまくしたてるように淡々とこう言った。
どこか感情がないように....。












「もう嫌だ。死にたい。点滴も入らないし、入院してだいぶ時間が立つのに一向に体は良くならない。
私何の病気なのかな?」






僕はあまりにも予期せぬ母からの言葉に
返す言葉が見つからず、何も言えなかった.....。





そして母は僕の方に目をやり、感情を込めて





「私がんばったよね?もう死んでも良いよね?」






その瞬間、僕はその場でむせび泣いた。




そして母の顔を見れず、
下を向いたまま
絞り出すように



「嫌だよ...。まだ一緒にいたいよ.....。お願いだからそんなこと言わないでよ...。」




むせび泣きの影響で、言葉に詰まりながらも
母に心の底から懇願した。


生きていてほしい人、死んでほしくない人
一緒に居たい人、大好きな人、


僕にとって母は言葉では表すことができないほど
愛おしい人。そんな人から



[死にたい] 



[もう死んでも良いよね]



と言われて凄くショックだった。


それと同時に生きてほしいと強く思うものの
何も励ましの声をかけてあげられない自分の弱さと
母に何もしてあげられない自分の無力さに
僕は
失意のどん底へと叩き落された...。



僕は母にかける言葉が見つからず
廊下へと出ていった。


そして病棟内の中央にあるソファーで
人目をはばからず、


早く泣き止まなくてはと
涙を止めようとした。


しかしショックが大きすぎて
涙を止めようとすればするほど
涙が止まらなかった。


そんな僕の姿を看護師さんが見て
声をかけてくれて、泣きながら
先程の経緯を話した。


後から聞いた話だと
この日の点滴がなかなか入らず
2、3回かかってしまったことに
母が過剰に反応してしまったとのことだった。



あの日から来年の1月で9年が立とうとしている。
もしあの日のあの瞬間に戻れたとしても
僕は同じように母の前で何も言えず
むせび泣くだろう。


8年立った今でも僕の中では答えは出てこない。
あの時何と言って励ませば良かったのだろうか...。


あなたなら何と言って励ましますか?


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プロフィール

ゆうじ

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