20代で両親を癌で亡くした僕の想い ~心の宿り木を目指して~

僕は21で母を、29で父を共に癌で亡くしました。 僕の経験や想いを書きます。 このブログが一人でも多くの方の心に届いて 心の宿り木のような存在になってくれると嬉しいです。

2017年11月

両親を癌で亡くした僕が経験した出来事を書きます。 身近で見た癌発見前の体の異変、癌発見、入院、抗がん剤、告知、看病、別れの時、それぞれの死から感じた事など赤裸々に書きます。 読んでくれる方の何かのきっかけになってくれれば嬉しいです。

少しずつ生まれ始めてきた疑問

年末年始が終わり、
1月の2週目に入った。


その頃には鼻の中から入れていた
チューブも取れていた。


しかし徐々に母の意欲が無くなってくる。
鼻のチューブは取れたものの、
体力をつけるためにも引き続き、
病棟内を歩いてほしいと先生から頼まれていた。


僕は先生に言われた通り、母を歩かせようと
「はつみ散歩しようよ」と声をかけても
「今日は疲れているから良いや」と
歩くことを拒むようになった。


僕は(体力が落ちてきたのかな)ぐらいにしか思わず
深く母の事を考えなかった。


年明けに先生から改めて説明があり、
もう抗がん剤ができる体力が無いと言われた。


なので母は抗がん剤を使用することは
亡くなるまで無かった。


当時の僕の中では抗がん剤に対して
「髪が抜ける」
「激しい吐き気に襲われる」
「痩せる」
などの悪いイメージしか無かったので、
どこか安堵していた部分があった。


怖がりの母が、もし抗がん剤を使うと聞いたら
ショックを受け精神的に耐えられないのではないか


抗がん剤を使うことで痩せて髪が抜けて
別人のような母になってしまうのではないか


などと心配した一方、本音を言えば
そんな母の姿を見るのは耐えられない、
そんな母の姿を見たくないといった、
自分が傷つきたくない、傷つくのが怖った....
というのが正直なところだった。


そして抗がん剤を使えず、打つ手がない状態だったため
当然母の体は治るどころか日に日に悪くなる一方だった。


最初の頃は治ると思って頑張っていた母も
一向に良くならない自分の体に少しずつ疑問を持ち始めてきた...。


そして僕は母からショックな事を言われる。
それに対し、僕は何も言えず泣くことしかできなかった..。





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最後の年末年始

12月22日に入院し、
癌が見つかり、余命宣告を受け
人工肛門になり、鼻から管を入れて


我が家の2008年は11月までは
例年と変わらなかったが
12月に入り年末にかけて
一瞬にして絶望の年へと変わった。


この当時バイトしていた所で
毎年恒例の大掃除があったのだが、


お母さんのそばにいてあげて
と温かい言葉を貰い、休ませてもらった。


その事を当時、母に伝えると
「良い所で働かせてもらってるね、アルバイトだからって手を抜かずに一生懸命がんばりなさい」
とアドバイスをくれたのを覚えている。


この言葉は社会人になった今でも
大切にしている言葉のひとつでもある。


2008年の大みそかのお見舞いは家族全員が揃った。
仕事が終わり、職場から直接病院に来た父と兄。


1人ずつ母と年内の挨拶を済ませた。
僕は「今年もお世話になりました。」と言った後、


言葉に力を込めて
「今年はこんな感じで年を越すけれど、来年は体治して良い年にしようね!」
と伝えた。


それは僕の心からの願いでもあった。
心の底では、無理だとは諦めていたけれど、
それ以上に生き続けてほしいという願いを込めて...。


「今年SMAPは紅白で何を歌うのかな?」
と母に聞かれたので


「紅白もビデオに録画しておくから、家に帰って来たら篤姫と一緒に見な^^」
と励ました。


母は嬉しそうに「そうだね^^早く退院しないとね^^」とニコッと笑った。
その顔を見てまた目が真っ赤になった。


そして母とお別れをし、家に帰り紅白を見た。
いつもなら母と一緒に見ている紅白も今年は母がいない。


(寂しいな....)とまた母が恋しくなった。
一緒に見て感想を言い合う。


こんな些細な事が
どれだけ幸せな事なのかを痛感した。


そして年が明け、母のお見舞いに行き
新年のあいさつ。


「今年もよろしく。今年は思い出をいっぱい作ろうね」
と目を真っ赤にして伝えたら


「なにそれ?(笑)まずは一日でも早く元気になって、それからだね^^」
と母は言い、昨日の紅白などについて話したのを覚えている。


これが僕が母と過ごした最後の年末年始。


母が亡くなるまであと33日。
ここから一気にショッキングな出来事が連続で
起こる悪夢のような日々が始まる.....。






何も言えず泣くことしかできなかった母からの言葉


告知


母に嘘をつかなければならなかった日々から
解放されたことを喜び
自分のことしか考えなかった僕


今でも後悔している告知したあの夜


母にはすべてお見通しだった僕の嘘


生きるのを諦めた母の前で
一人悔し泣きをしたあの日の夜


誰よりも辛かった父の決断


泣きながら心を込めて「おれ幸せだよ」と伝えられたあの日


好きな人がいるんだと初めて伝えたあの日


なんであんなことをしてしまったのだと未だに後悔している亡くなる前日の行動


僕が来るのを待っていた母


永眠





振り返ってみても
この母が腹痛を訴えたあの日から
母が亡くなるあの日までの出来事は
僕にとって今になっても母の顔、病室内の風景などを
鮮明に覚えているほど死ぬまで忘れられない、
母とのかけがえのない大切な大切な時間となった。


これから母が亡くなるまでの
出来事を書いていきますので
これからもよろしくお願いします。


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同じ方向を

鼻からチューブを入れ終わり、
母が病室に戻ってきた。


しかし母は憔悴しきっていて
とても会話ができるような
雰囲気ではなかった。


精神的にも肉体的にも
疲れ切っているのが見て取れた。


僕ら家族は母が回復するまで
1人ずつ交代制で看病した。


そして夜になった頃には
母もだいぶ落ち着いて会話も普通にすることができた。


その頃には家族4人全員揃っていた。
そして病室に来た
主治医の先生から


このチューブから排液が出てくる。
歩くことで出やすくなる。
様子を見てリハビリがてら病棟を歩いていきましょう


と説明を受けた。


母の痛々しい姿を見て
ショックを受けたけれど


先生からの説明を受け
僕は1人心の中で


(この茶色の毒素のようなものがたくさん出れば良いんだな)


と強い決意をした。
そして次の日から言われた通り
母と一緒に病棟内を歩いた。


母は右手に点滴付きの歩行補助器を
左手に手すりを持ちながら
ゆっくり、ゆっくりと歩いた。


もちろん僕は母の横に立ち
母の体を支えながら。


母は久しぶりに歩いたから
すごく気持ち良さそうで
嬉しそうだった。


僕もまた母と一緒に歩いていて
嬉しかった。


最初のうちは1度にそんなに歩けないので
ちょっとだけ歩いて病室に戻り


1時間程度休んだらまた歩く。
それを約1週間繰り返した。


僕が「よし!休憩終わり!はつみまた歩こう^^」
と声をかけると


「ゆうじはスパルタだな~^^」
と嬉しそうに応じてくれた。


僕はこの穏やかな時間が
いつまでも続いてほしい
と心の底から思った。


そして歩き終わり、病室に戻って
母のチューブからたくさんの排液が出てくる
と2人で一緒に喜んだ。まるで子供のように。


例え未来が決まっていたとしても
この前向きで同じ方向を見て
一緒に一喜一憂している
この時間を大事にしたい。


そんな風に思いながら疲れて眠っている母の横で
チューブから出てくる排液を見ながら


(お願い!はつみの体から癌細胞も一緒に出て行ってくれ!)


と泣きながら願った。




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深い所で

母は腸閉塞を患ったことで
食べた物を腸がうまく運べていない状態になり、
食事を摂れず、点滴で賄っていた。


思えば母は腹痛を訴えた12月上旬から
約2週間、何も口にしていない生活を送っていた。


そして入院して数日が立ったある日
主治医の先生が、母の病室に訪れた。
その時、母とお見舞いに来ていた父と僕の3人がいた。


主治医の先生から、鼻からチューブを入れて
腸の中身を逃がし、腸に掛かる負担や圧力を
軽減する治療を行うと説明を受けた。


母は昔から極度の怖がりで
元気な時に町医者に通院していた頃、
診察当日に体重が増えていると、
「先生に叱られる…」と、必要以上に怖がり
よく台所で嘔吐を繰り返していた。


また虫歯がかなり進行してしまった事があり、
専門の病院で歯の治療が必要になった時も
当日、嘔吐を繰り返していた。
大学の講義が終わったら来てほしいと
頼んでくるほど怖がりだった。


そんな怖がりの母だったので、鼻から管と聞いて
先生が病室から帰った後、父と僕の手を握り、
「怖いよ…」と泣いて訴えてきた。


僕と父は「大丈夫!良くなるために頑張ろう!」
と必死で励ました。


そして鼻からチューブを入れる日、
この日は家族全員でお見舞いに来ていた。


エレベーターの前まで付いていき、
この時も母は代わるがわる家族全員の手を握り
最後まで「怖いよ…」と泣いていた。


そんな母を見て父が両手で母の手を握り
「大丈夫!家族全員ついているから」


と励ました。そんな両親の姿を見て
僕は後ろに下がり、誰にも気づかれないように
必死で涙を堪えた。


普段はこんな風に手も握らなければ、
あまり会話をしない両親なのに


こういう時にしっかりと
頼って、励まし合って


深い所で愛し合っている両親の姿を見て
こみ上げてくるものがあった。


(やっぱり信ちゃんとはつみの子供で良かった)



と心の底から思った。



あの時の両親の姿は僕の宝物。



そして母は治療へと向かった。





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奮い立つ想い おれがはつみを支えるんだ!

僕の心はボロボロだった...。


心の中に「死にたい」「死ねたら楽だろうな..」
などと自分の命を軽視する考えが出てきてしまった。


この気持ちはたしか2、3日続いた気がする。
母の病室で、母の寝顔を見ながら


(もしおれが死んだら、父からおれが死んだと聞いてショックを受けるんだろうな~)


と上の空というか無気力で
そんなことまで考えてしまったのを覚えている。


それほどまでに僕の心はボロボロだった..。
そして真っ暗な家に帰って、
父と兄の帰りを待ち、
食事などを済ませ、最低限のコミュニケーションを取る。


母が家に居た時とは、比べ物ならないほど
寂しく、暗い我が家だった。


そして就寝。
自分とゆっくりと向き合える時間。


しかし母と別れたくないという悲しみ、
胸を締め付けられるような恐怖に襲われ
僕は気がつくとすぐに泣いていた。


そんな時、このままではだめだと
自分の心を鼓舞するために
携帯で名言集を調べた。


そこで僕の心は奮い立った。


その名言とは


「あなたが死にたいと思った今日は、昨日死んでしまった人が生きたいと願った明日」


という言葉。


僕はこの言葉を読んでさらに泣いた。


そして自分なりの言葉に言い換えた。


「あなたが死にたいと思った今日は、世界のどこかで、生きたい!と強く願った人が死んでいった今日でもある」


もっと言えば


「俺が死にたいと思っているこの瞬間も、世界のどこかの誰かが生きたい!と強く思いながら死んでいっているのかもしれない」


と自分をどんどん鼓舞していった。


「生きれるおれが自分の命を捨てるなんてダメだ!はつみは生きたいのに生きれないんだ・・」


「おれがはつみを支えるんだ!」


と泣きながら自分をひたすら鼓舞し続けた。



今でもこの


「あなたが死にたいと思った今日は、世界のどこかで、生きたい!と強く願った人が死んでいった今日でもある」


という言葉は大事にしている。



だって僕はこの言葉に命を救われたから...。



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